まず、みなさまから被災地への
多くの温かい義援金をお寄せいただき
ありがとうございました。
寄せられた義援金は、
全日本民医連を通じ被災地の
復興支援に役立てられます。
皆様のご厚意に、
心より感謝申し上げます。
この支援活動を通じて、皆様と共に
被災地の復興を支えることができ、
非常に感謝しています。
◆2024年11月25日~27日まで全日本民医連より 能登半島地震・豪雨被災地の支援に参加した、斉藤先生にインタビューを行いました◆
-能登は1月の地震につづき、9月には豪雨災害が発生しました。
この大変な状況の中、支援に行かれることにされた動機を教えて下さい。
なかなか復旧が進まないと聞いて、少しでも役に立ちたいという思いが強くなったこと、それと関西も災害予想があり、自分たちも備えをしておかねばならないという点もありました。
加えて、学生時代の先輩が石川民医連輪島診療所で元気に働いているのを、民医連新聞やテレビ報道で見て、ぜひ応援に行きたいと思い参加を決めました。
-今回は能登豪雨被害の支援ということでしたが、能登のどのあたりに支援に行かれたのでしょうか?
被害が圧倒的に大きかったのは、能登半島の先端、珠洲市と輪島市ということで、今回は輪島市へ向かいました。
鉄道で金沢から七尾に行き、そこで乗り換えて穴水まで行き、バス組と合流しました。
1日目は穴水町から車で30分ほど北上し、輪島市へ向かい、さらに北西部の鴻巣地区に行きました。
2日目は豪雨被害の大きかった輪島市町野町曽々木へ向かいました。町野町は輪島市街中心部から20km海沿いに北上したところに位置しています。町野町へ向かう海岸沿いは奇岩、切り立った崖が続いています。白米千枚田などもある観光地でしたが、地震の影響で奇岩は崩れ、崖も崩れて道を塞いでいました。
輪島市中心部からは道路が寸断していて向かえず、穴水町から北北東への道路で向かいました。沖合の島を見ると喫水部分が白いのが見え、これは海底が隆起した証拠とのことでした。
-能登半島は平地が少なく、現場で解体作業をされている業者の方やボランティアも輪島市や珠洲市内に宿泊施設を確保できず、穴水町などから通って作業されていると聞きましたが、やはり民医連でも穴水町の一戸建てのお宅を宿舎としてお借りしたそうですね。民医連の各法人から入れ替わりでたくさんの方が会員さんの安否確認や、泥かきといった支援に行かれたとお聞きしています。先生が参加された期間は何人くらいの方が支援に行かれていましたか?
また、11/26には大きな地震があったとお聞きしました。
私が参加したのは第9クールで全国から10名が集まりました。穴水町の一戸建てのお宅を借りて女性は2階で、男性は1階で寝袋で雑魚寝しました。
阪神淡路震災で東神戸病院へ行った時も、余震で揺れる最上階で寝袋で寝ましたが、それ以来の寝袋でした。
今回3泊4日の予定でしたが2日目の夜10時頃地震がありました。私はこのとき輪島診療所の先輩と介護施設にいたのですが震度5弱を初めて経験しました。 揺れが長く続き、不安な時間が続きました。
師長さんが心配して駆けつけてくれました。
3日目の朝、連絡があり前夜の地震を受けて急遽訪問活動が中止となり、上下左右に曲がりくねる準高速道路を金沢に向かい、石川民医連(勤医協)本部 と城北病院に寄り解散となりました。
-地震と豪雨被害に見舞われた現地の被害の状況や、住民の方の様子はどうでしたか?
現地に到着してみると、想像以上に被害が深刻でした。家屋の被害がひどく、特に準半壊の家が多かったです。例えば、輪島市鴻巣地区では、見た目は残っていても基礎と建物が分離しているのは全壊か半壊と認定されますが多くは「準半壊」、修繕費は少なく医療補助もありません。
今は仮設に入っているが、時々家を見に来るという方にお話を聞けました。「仮設は狭く、それまで大きな家に住んでいたので、夫婦二人でも狭い空間ではストレスがたまる。」とおっしゃっていました。
唐辛子を干していた女性に、電気が1ヶ月、水が3ヶ月も止まっていたと教えてもらいました。自家発電と給水車で何とか生活を維持していたとのことです。
下水が最近通ったところもありました。店も壊れ、買い物は週2回の移動スーパー。
屋根だけを残し全壊の家屋は、既に住んでいないところで死者はいないと伺い、ほっとしました。
平家の末裔、時国家は大きな 茅葺屋根だけになっていました。
町野町の中心は内陸で、山からの細い沢は倒木で埋まり周囲は 泥が堆積し、手つかずのままでした。
豪雨による土砂崩れや家屋の損壊が広がっていて、復旧作業が思うように進んでいない印象を受けました。
仮設生活が長期化する中、インフラの整備が急務であるとともに、被災者の体調管理や精神面の支援も重要であると感じました。
-先生は大学時代を金沢で過ごされたとお聞きしました。学生時代の能登にもいかれたと聞いていますが、能登の思い出を教えて下さい。
学生時代、私は金沢市で過ごしました。その頃は輪島や珠洲市の先、蛸島まで鉄道がありましたが、輪島の朝市も舳倉島へも行かなかった。大後悔しています。
サークルの合宿では、輪島の曽々木海岸で美しい海を見ながらスイカ割りや肝試しを楽しみました。
また、友達と車で能登半島を一周した際は突端の禄剛埼灯台の崖下で波打つ海を眺めました。
その時の記憶は今でも鮮明です。能登は自然豊かで、景色も素晴らしく、あの時の思い出は私にとって大切なものです。
-まだまだ大変な状況が続いていると思いますが、今後どのような支援が必要でしょうか。
宿泊施設や交通の問題、自治体のボランティア要請が曖昧で復旧の人手が足りていません。
市町村合併で広域化しても職員を増やさないからなおさらです。
被災者は話を聞いてくれる人を歓迎してくれます。医療機関にかかっているか、家屋の被災手続きはしたか、仮設の住み心地はどうか、など少し質問しメモを取って移動しようとしても、次から次に話をされます。
直接現地へ出向くのは宿泊場所、移動手段を確保せねばならず当面難しいでしょう。
能登の物産を購入すること、カンパを送ること、などで遠くから応援したいと思います。
能登の支援に参加して得たことをこちらでどう活かしていくかも、たいへん重要な課題だと思います。